――奈良の日本酒づくりはどの時代まで遡るのでしょうか。
山本
「奈良の酒づくりについて組織的な活動を確認できる最初の文字の記録が、平城京(710~784年長岡京遷都までの74年間)の遺跡から出土した木簡に書かれていた『造酒司(ぞうしゅし/さけのつかさ)』です。造酒司というのは言うなれば国立の醸造所。木簡には、例えば聖武天皇(在位:724~749年)の行った大嘗祭(だいじょうさい)では、どんな酒がつくられていたかという記述もある。奈良時代には既に、お酒が国家の祭祀(さいし)と深く結びついていたことが分かります」
――造酒司でつくられていた酒は庶民が飲むためのものではなかったようですね。
山本
「国家の平安とか五穀豊穣を願って、神様に捧げるものでした。木簡には『清酒』という文字も出てきます。当時、『すみさけ』と読んでいたのかもしれませんが、この木簡が出土したのは、平城京の大極殿(だいごくでん)*1や内裏(だいり)*2のすぐ近くだったようです。この時代の清酒は、天皇家や貴族が扱う儀式のための特別なお酒。そうした酒をつくっていたのが国の施設の造酒司だったと考えられています」
*1 大極殿:平城宮の中心にある最大の宮殿。天皇の即位式や元日朝賀など国家の最重要儀式が行われた場所。
*2 内裏:天皇が住み、儀式や執務などを行う宮殿のこと。
――民間の人々が、今でいう清酒を飲めるようになるのはもっと後の時代ですね。
山本
「そうです。大きな転機になったのが、中世、室町時代の頃に奈良や大阪で発展した『僧坊酒(そうぼうしゅ)』*3の隆盛でした。僧坊酒というのは、寺院が所有する荘園の米を使い、境内で醸造された寺院醸造のお酒のことです。大阪の天野山 金剛寺(あまのさん こんごうじ)の『天野酒(あまのさけ)』や、奈良の菩提山正暦寺(ぼだいせん しょうりゃくじ)の『菩提泉(ぼだいせん)』が有名です。奈良の興福寺や東大寺でも僧坊酒をつくっていたと言われています」
*3 僧坊酒:寺院で醸造されていた日本酒の総称。大寺院ではもともと神様に備える酒をつくっていたが、それらの経験や渡来僧による大陸の技術の融合により酒づくりが行われ、寺院運営の財源確保に使われた。
――室町時代に盛んにつくられた僧坊酒というのはそれまでの酒と何が違ったのでしょうか。
山本
「一番大きかったのは、『流通できる酒』になったことです。日持ちする酒ですね。日持ちするっていうことは、画期的なことでした。日持ちするからこそ、遠くまで運べるし、まとめて大量につくろう、生産性を高めようという方向にもなる。どぶろくというのは日持ちしないので、つくったらすぐ飲むしかない。でも、保存できて流通できるようになると、酒は商品となって、ブランドが生まれていく。
ふんわりぼやんと美味しいもんつくっていても、大革新っていうのは起こらないですね。どぶろく飲んでて美味しいなと思っていてもね。そこでもっと美味しい酒をつくりたい欲望、もっとお金を手にしたい欲望が清酒を生み出したんやと思います」
山本
「奈良でつくられた酒は、京都では『南酒(なんしゅ)』『南樽(なんたる)』『山樽(やまだる)』などと呼ばれていました。奈良が京都から見て南の都だったからです。貴族の方々も飲んで、美味しい酒として知られていた記録が残っています」
――奈良が「日本清酒発祥の地」と呼ばれる理由も、そこにあるのでしょうか。
山本
そう思います。飛鳥、藤原、平城、平安と都が移っていく中で、国立の醸造所の記録が残っていて、お酒と朝廷が並走してきた。その流れをくんだ僧坊酒が、中世の終わりに流通できる酒に進化して、そこから江戸時代以降、酒が産業になっていったんです。





























